今日は、生徒さんが登校時、二枚の硝子玉の貼り合わせ面で、天然樹脂素材流動性粘着物自体が劣化している個体を持参してきたので、ちまたで時々聞く、バルサム切れという症状の個体について、他の生徒さんと情報を共有したいので、少し詳しく解説してみました。
この症状は修理により状態が改善されるケースもありますが、クリアー度は復元しても光学系数値に何だかの影響が出てしまう事もありますので、修理を推奨している訳ではない事を冒頭で強調させて頂きます。なので、一種のレンズ豆知識に属すコンテンツと捉えて下さい。
実写への影響
白濁症状にも段階があって、薄っすらと雲がかかっている程度の進行状態では、それ程実写には影響はないと思いますが、目視的に真っ白な状態にまで、劣化が進行している個体は、やはりまともな写真は取れないと判断します。そして、合成レンズが組み込まれている場所が、殆どの場合絞り羽ユニット機構よりもリヤ側にある為、実写への影響は少なからず出てしまうのも特徴の一つです。
今回持ち込んでもらった機種
今回の登校時に生徒さんが持参してくれた機種は、Tokina AT-X 24-40mm F2.8という広角Zoomレンズになります。レンズ全面に虹色のにじみがあるという現象と、鏡胴内部を光源をかざして目視すると、白っぽいという事で、その修理の仕方を習いに来られました。生徒さんは、この白濁症状が合成レンズの貼り合わせ面にて起きている症状だという事は勿論知りませんでした。
色々なレンズを毎日見ているとその内に、段々と見分けがつく様になりますが、レンズ鏡胴内部にアクセスしないで、レンズを覗いた段階で、この症状の原因を特定するのは少し難しいと思います。問題の該当合成レンズをレンズ鏡胴内部から取り外す前に目視するとこんな感じに見えます。
この写真は、対物側のレンズユニット(群レンズ)を外してリヤ側を撮影したアングルになりますが、レンズ全体の三分の二くらいが白濁しています。この白濁の原因が、カビ等の付着物であれば、それを除去すればクリアーな硝子部位に復元しますが、この段階での診断は難しいです。更に該当部位をこの段階から取り出してみて検査を進めていきます。
すると、写真の様な小さな硝子玉が組み込まれています。この写真をよく見てみると解りますが、一見一枚の硝子玉に見えますが、実は2枚の硝子を貼り合わせてこの様な一枚の硝子玉を人工的に作った部位である事が判明します。こういう硝子玉を合成レンズと呼んでいます。二枚の硝子を貼り合わせているのですから、その結合の為には何だかの接着剤が使われています。この接着剤自体が貼り合わせ面で劣化が進行していきます。この接着剤の事をバルサムと呼んでいます。
バルサムとは?
カナダバルサム (canada balsam) とは、アメリカ合衆国東部およびカナダに広く産するバルサムモミ(Abies balsamea L. またはBalsam fir)などから採取される天然樹脂の一種で、松脂に似た性状をもつ粘りのある液体である。色はハチミツ状の淡黄色から薄い茶褐色透明を呈する。光学ガラスの接合やプレパラートへの試料封入に用いられる他、特有の芳香(松脂に類似しており、一般にバルサム臭と称される)を利用してアロマテラピー・香料などに用いられる。
屈折率が1.52程度と高く、クラウンガラスの屈折率に近い。そのため光学ガラスやレンズの接合に用いられた。この用途においては100年以上の歴史があるが、淡黄色に着色が発生し、経年劣化によってその程度が進行すること、耐候性がやや劣ること、加熱で軟化させて作業を行う必要があるため光硬化樹脂と比較して作業性が劣り、特に複数枚レンズの接合作業が困難であることなど(この特性は逆に接着面をはがす必要がある場合にはメリットとなる)から、現在は合成樹脂系の貼合材料に代替されてしまった。
合成レンズの実態
上記写真の様に、鏡胴から取り出した小さな硝子玉=合成レンズ単体を光源に翳して(かざして)見ると、この様な症状である事が判明します。この硝子部位には勿論カビの付着も確認できますが、この付着物を除去しても状態は改善しません。
この様な症状の硝子玉=合成レンズの事をバルサム切れ等の呼び方で謳われています。この部位を取り出す為には、Tokina AT-X 24-40mm F2.8という機種の場合は、対物側から順番にレンズ鏡胴内部へとアクセスしていきます。
そして、写真の様な一塊の硝子玉部位=レンズユニットを取り出します。この部位は一つの塊に見えますが、4枚1郡のある意味合成レンズになっています。今回のバルサムという症状はこの部位には発生していませんので、もしカビ等の付着物がこの部位のどこかに確認できたら、このレンズユニットを更に分解して、該当硝子玉の付着物を除去していきます。今回は、虹色の油膜を除去しました。この大きなレンズユニットを鏡胴から取り外すと、写真の様な状態の鏡胴内部が確認できます。
この写真の奥に、問題を抱えている合成レンズが組み込まれています。殆どの機種で、バルサム切れ症状の合成レンズは、この写真の様に、絞り羽ユニット機構のその奥=リヤ側に組み込まれた、サイズとしては小さめの硝子部位になります。なので、リヤ側からアクセス可能な機種に関しましては、リヤ側からアクセスした方が作業効率は上がります。
今回は、合成レンズの貼り合わせ面にて起きている、天然樹脂素材の流動性粘着物自体の劣化が原因の白濁現象を、生徒さんに理解してもらいたかったので、アクセス手順も解説しながら、該当部位以外の光学系付着物除去方法も解説したかったので、敢えて対物側からのアクセス手順にしました。当協会では、天然樹脂素材の流動性粘着物自体の劣化が原因の白濁現象に関しては、敢えて処置はしない指導をしていますので、バルサム現象の豆知識としての解説はこれで終わりになります。
今回解説に使った機種詳細
機種名 | Tokina AT-X 24-40mm F2.8 |
シリアルNO | 8602332 |
付属品 | 前後キャップ |
課題(所有者さん見解) | レンズ全体が白く見える。レンズ前面の一部分にシミの様な汚れ |
なので、この個体の修理結果報告レポートとしては、レンズ前面の一部分のシミの様な汚れの除去はできましたが、レンズ全体が白く見えるという症状の解決はできなかったという結果になりました。この様に、光学系の問題に関しましては、合成レンズ貼り合わせ面にて起きている白濁症状は、修理の範疇では復元が出来ないと診断しています。もしも、処置を施した場合、再組立後に光学系の数値に支障が発生する危惧を孕んでいるリスクを承知の上で処置を施す事になります。
リスク覚悟で処置を施す場合
該当合成レンズは、二枚の硝子部位が接着されて一単位の硝子玉になっていますので、二枚の硝子部位を強制的に剥がして、白濁が進行=劣化している接着剤を剥がし、その面をクリーニングして、再度貼り合わせれば、白濁症状はなくなりクリアーな硝子玉に復元させる処置になります。
全ての個体で、この方法による復元処置を施した訳けではありませんが、研究として過去にいくつかの機種で処置を施した事はあります。二枚の硝子部位を剥がす為には、各部位の温度変化による伸縮率の違いを応用します。合成レンズを高温の湯に浸し、その後水道水で冷却します。
この工程で、二枚の硝子玉がそれぞれ膨張と伸縮するので、その伸縮率の違いから、くっ付いていた二枚の硝子部位が、二枚の単独硝子として分離します。そして、貼り合わせ面をクリーニングした後、再度貼り合わせれば、見かけ上はクリアーな硝子部位に復元します。ポイントは、剥がす前に合成レンズのコバ部分に薄く傷(マーク)を付けておくと、再張り合わせする際の指標になります。
再張り合わせに使う接着剤は、本格的な研究はしたことがありませんが、紫外線で硬化する液体プラスチック類がいいと思います。実際にこの接着剤を使用して、課題が解決し、光学系数値に問題も発生しなかった事例はあります。
この液体プラスチックの利点は、普通の接着剤と違って、空気と化学反応を起こして硬化する素材ではなくて、紫外線を当てると硬化する素材なので、再度貼り合わせする際の位置の確認が正確にし易い事です。
只、固く固まったプラスチックとしての素材の屈折率が、どこまでの水準なのかに関しては、研究はしておりませんので、復元した個体のレンズとしての機能を保障できるレベルの処置方法とは言えない事、ここに表明させて頂きました上で、このコンテンツを公開している事をご了承下さい。同様に、この硬化したプラスチックの強度や、透明性に関しても光学機器の接着剤としての基準を満たしているのかどうかも不明です。そして、均一に塗る技術も求められます。
このコンテンツの主役は、当時合成レンズを作る際に使用されていたバルサムモミという天然樹脂素材の流動性粘着物です。人間の英知と研究で、レンズという光学機器は様々な角度から製造・販売されてきた歴史を持ちます。
現代、このオールドレンズの良さが改めて見直されてきていますが、バルサム切れという接着剤そのものの劣化の進行による白濁現象も、人類が研究して採用したひとつの足跡の結果なのだと私自身は捉えています。そういう偉業をたたえる意味で、このページのアイキャッチ画像を森のイラストにしました。